三浦綾子の言葉

1939年、旭川市立高等女学校(現・旭川市立北都中学校・立地)卒業。その後7年間小学校教員を勤めたが、終戦によりそれまでの国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き、1946に退職。この頃肺結核を発病する。1948北大医学部を結核で休学中の幼なじみ、前川正に再会し、文通を開始。前川は敬虔なクリスチャンであり、三浦に多大な影響を与えた。1952に結核の闘病中に小野村林蔵牧師より洗礼を受ける。1954、前川死去。1959に旭川営林局勤務の三浦光世と結婚。光世は後に、綾子の創作の口述筆記に専念する。小説家、エッセイスト。1999年没。

 

夕あり朝あり・草のうた・石ころのうた・石の森・ちいろば先生物語・明日のあなたへ〜愛するとは許すこと〜・母・氷点

ひつじが丘・道ありき・病めるときも・どす黒き流れの中より・羽音・裁きの家・この土の器をも

残像・自我の構図・細川ガラシャ夫人・毒麦の季・逃亡

天北原野・広き迷路・泥流地帯・果て遠き丘・貝殻・喪失・千利休とその妻たち・続泥流地帯・岩に立つ

海嶺・太陽は再び没せず・愛すること信じること・生きること 思うこと・あさっての風

青き棘・水なき雲・愛の鬼才・嵐吹く時も・雲のアルバム

あのポプラの上が空・われ弱ければ・積木の箱・続氷点・雨はあした晴れるだろう・銃口


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