Robert Louis Stevenson by G.B.Stern
「バラントレーの若殿」は「ジキルとハイド」ほど、はっきりではないが、一つの肉体の中に閉じ込められた二重人格者の物語とみなすことができる。二人の兄弟は善と悪、愛と憎しみの象徴である。やがて憎しみが勝利を得る。もし憎悪にも政党さがあるとすれば、女で親切な弟ヘンリーが幻覚的な邪悪の化身ジェイムズを憎悪するのは当然である。しかし我々が憑きものの奴隷であるヘンリーが次第にその善良さをすっかり涸らしてしまうのを見ている間に、ジェイムズも同様に悪化していく。そしてヘンリーとジェイムズは同一になる。そして、ここでもまたハイドがジキルに打ち勝つ。

ステーブンソンが悪事と凄惨な結合をしてみせる同様な礼は、この他にも覆う見出すことができる。

少しも暗い顔を見せずに、どんな不幸をも笑顔で迎えることができるということは、彼のすぐれた才能の一つである。

スコットランド人特有の寛大な本性をことごとく身につけていた彼は、距離を物ともせぬ親族や友人や未知の人に対して、惜しむことなく親切に振舞った。サモアの混乱した政治や戦争をめぐって、勢力の弱い側は例によって、彼のドン・キホーテ的(熱狂的だが非現実的)な援助を求めた。

悪が人間の心のどこかに入り込んだが最後、悪は善を圧倒し、最後の凱歌をあげるものだ、ということを我々に警告するのである。しかし、ジキルは善の単純な擬人化としてではなく、「悪に近づくこと」に密かな喜びを見出しながら、うわべは体面を繕い、名声を維持しようと望む善として描き出されている。ジキルは侵略者(悪)に対して抵抗をなし得なかった軽蔑すべき裏切者である。

私は二重人格者について書きたいのです。

私が恐ろしいと思う唯一のことは、分裂した人間の内部における呪うべき昔ながらの闘争である。

彼はジキルのような偽善的な臆病者ではなかった。彼の心の奥にどんな悪魔が潜んでいようとも、その悪魔にはあのハイドの冷厳な残忍さは露ほど無かったのである。

虐げられた者に残酷な仕打ちや不正が加えられるとき、彼はたちまち烈火のごとく激怒するのが常であった。

子供の頃から軍人になりたかった。彼は戦いが好きであった。

「子供の心を宿した大人」。強い熱烈な言葉を伴う強い熱烈な気質、自分自身は肉体的な安楽を特に必要しなかったため、自分の周囲の者の肉体的安楽には(生来、人に親切だったにもかかわらず)実際には、思いやりがはなはだ足りなかったこと、後先を考えない寛大さ、ひどく無鉄砲な所があって、手許不如意になると、すっかりふさぎこんでしまう。

嬉しがりも悲しがりもしないで、義務という偉大だが殺風景は階段を一歩一歩登った。

勇気と笑いを失わない絶望という特異な気質を持った海賊。

その信仰には、義務が何であれ、常に不安なまでに積極的な良心と、そして義務の観念とが含まれている。この義務感が彼の生涯を導いたように思われた。(2009.3.18)

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