ドイツ演奏旅行

1974年9月7日(土)、出発当日、120人あまりの楽員の表情は明るい。やるべきことはすべてやった。楽器は梱包されて一足速く羽田に行っている。私達は、夕方、集合場所に集まる。各々のスーツケースが新しい。語り合っているもの、家に電話をかけているもの、荷物を確かめているもの、様々である。
バス3台にて羽田に向かう。飛行機はもちろん、羽田も始めてである。うれしさは顔に出てしまう。国際線ロビーは人で一杯である。税関のボデーチェック、荷物の検査も緊張のうちに終わり、飛行機搭乗、異国の地に飛び立とうとしている。飛行機は400人のりの日航ジャンボである。ステュワーデスが笑顔で向かえる中、席につく。
ベルト着用のランプ。飛行機が動き出す。滑走路に出た機体はいったん動きを止め、そしてエンジンが回転し始め、機体が走り始めた。窓が傾き始め、高度が増してくる。離陸である。やがて、機体は水平状態になる。着用ランプ、禁煙ランプが消えた。
北極回り、17時間あまりのドイツまでの旅である。アラスカのアンカレッジにて給油。所要時間8時間。乗務員の交代と機体の整備が行われている。ロビーの窓から見える風景は低い山々に囲まれたのどかな田舎の雰囲気である。滑走路の脇の芝にウサギが戯れている。そしてアンカレッジからハンブルクに向けて出発である。窓の外は北極の白夜である。
アラスカから8時間あまり、ドイツの北の町、ハンブルグに到着。疲労感が体にみなぎっている。しかもさらにここからフランクフルトまで1時間あまり乗り換えである。この1時間のフライト、飛行機の揺れが激しかった。そして着陸。異国の地に到着。しかし、体は旅の疲れでガタガタである。
ライン川の城 空港からバスにてライン川の船場まで行き、そこから船でボンまで行くことになっていたが、体調不良の楽員が多く、ライン下りを変更し、バスでライン川を見学することになった。車窓から見えるドイツの田舎は美しい。それぞれの村落の中心には教会がそびえている。教会を中心に、家々が建てられたのであろう。宗教というものを感じる。
シューマンの交響曲第3番「ライン」が頭に流れる。しかし、ライン川は、綺麗な川とは言えない。観光船が絶えず行き来している。橋は一つもない。レンガ造りの家々が立ち並び、ライン川を見下ろす、山々には城がそびえたつ。その数100あまり。見を乗り出してカメラに収める。
3時間あまりのライン見学の後、ドイツの首都ボンに到着。とても静かな町である。2日後に演奏会が予定されている。イエズス会がボン演奏会の準備をしてくれたのである。演奏会場の下見を終えた楽員は、数人を残し、宿舎のあるケルンにバスで向かう。会場に残った僕達数人は、先に到着した楽器をトラックから下ろす。夜はすっかり更けている。宿舎までは電車で帰ることになった。電車の中の人はみな外国人であった。いや、僕達が外国人なのである。おばさん達が、何やら歌を歌い始めた。隣りに座っている人が、さかんにブドウ酒らしきものを勧める。何とも言えない甘さであった。
ボンから30分、ケルン駅に到着。行き先のわからない僕達は、買い物帰りの一人の年配の女性に尋ねた。その人は、宿舎へ電話をかけ、場所を確認すると、地下鉄の切符を買ってくれた。ケルン動物園行きである。女性も一緒であった。地下鉄を出て、夜の公園を通り過ぎる。ウサギが遊んでいる。目的地はなかなか見つからない。その女性は真剣であった。通りすがりの人に聞いたり、額には汗が光っていた。ようやく宿舎到着。言葉は通じなくても、その人に何かしないではいられなかった。私達は、その人を駅まで送ることにした。そして、心の奥から、「ダンケシェーン」と言って別れた。何とすばらしい国であろう。
次の日、ドイツでの最初の朝を迎えた。窓からケルンの大聖堂の2つの大きな塔が見える。
ケルン大聖堂前にて記念写真 午前は、演奏会場での練習であった。午後は、ボンの市内観光。ベートーベンの生家見学。彼が使ったピアノ、補聴器、デスマスク等が陳列されていた。
ケルン大聖堂見学。信者でもない私達が、そこに入れるのもイエズス会の特別な配慮によるものである。教会前で記念撮影後、中に入る。ステンドグラスから薄明かりが漏れてくる。静粛にならざるをえない。
9月10日、演奏会当日。午前の練習を終え、本番直前。演奏会は7時30分からである。
客席には日本人の姿が多い。緊張感を胸に舞台に登る。満席である。指揮者登場。起立。国歌演奏。「ドイツ国歌」そして「君が代」。この演奏会で一番怖いのは最初の曲、ウエーバーの「魔弾の射手」序曲の冒頭のホルン4重奏である。ホルン奏者の自分にとって音をはずせば、僕自身がいやな思いをするだけでなく、演奏会の成功にもかかってくるのである。東京での演奏会では決して満足いく演奏ではなかった。
あたりが一瞬静まると同時に心臓が激しく打ち始める。指揮棒が降りる。序奏が終わり音を出す。完璧な4重奏。心臓の鼓動も治まる。曲は順調に進んで行く。楽員乗りに乗りまくっている感じである。演奏会はもちろん大成功であった。演奏会終了後のレセプション、シャンペンが酌み交わされ、なごやかな雰囲気であった。しかし、コンクールでも、このような素晴らしい演奏ができるか不安である。
ベルリンへの旅立ち。所要時間15時間、バスにてベルリンに向かう。アウトバーンは何処まで行っても一直線である。ボンは自由主義西ドイツであり、ベルリンは社会主義東ドイツである。国境を越える。検問所での注意は、決して笑わないこと、新聞・雑誌はバックにしまうことであった。ピストルを下げた憲兵がバスに乗り込むとパスポートと顔を検証。さらに全員のパスポートを集めると事務所に持ちかえってしまった。バスから降りることを許されない私達は、狭いバスの中で通過許可を待つ。3時間後ようやく入国許可。
西ドイツと東ドイツ。明と暗。動と静。いままで舗装されていた道路はガタガタ道に変わる。ベルリンは東ベルリンと西ベルリンに分かれる。ベルリンの壁は有名である。私達が行くのは自由都市西ベルリンである。西ベルリン到着。自由主義の活気が感じられる。
ベルリンの壁 国際青少年音楽コンクールは明日から開催される。このコンクールは、カラヤン財団の主催により、3年に1回、ベルリンで開催され、世界各地から10団体が選ばれ、各々一晩のコンサートを開くのである。期間は9月12日から22日までである。わがソフィア・フィルは9番目、9月20日であった。どのような基準で10団体が選ばれるかは定かではないが、私達はカラヤンの推薦があったものの他の9団体は音楽大学もしくは音楽学校の生徒からなる団体であった。日本から、アジアから初めての出場である私達は大変幸せである。
ベルリンでの毎日の日課は、数時間の練習と夜の演奏会を聞きに行くのが義務の他は自由行動であった。気の知れた友とベルリンの繁華街を歩く。
コンクール始めの4団体は室内オーケストラであった。そんな中、素晴らしい演奏会を聞くことができた。カラヤンと並び賞される大指揮者カール・ベームとベルリン・フィルの演奏会を聞くことができたのである。80歳のベームまさに円熟の域である。曲目はベートーベン交響曲第9番「合唱」である。会場は、フィルハーモニー・ホールである。席は前から6列目。ベルリンフィルの団員が舞台に出てくる。全世界にその名を知れれる名奏者たちの顔が見れる。ベーム登場。しっかりとした足取りで舞台に上がり聴衆に礼をする。
棒が振り下ろされる。信じられないような音色。身を乗り出す自分。時間は知らず知らずの内に過ぎて行く。すでの4楽章、歓喜の合唱。目頭が熱くなる。割れんばかりの拍手とともにブラボーの声。ベームは何回となく舞台に呼び出される。ベルリン・フィルの団員が退場し、舞台の明かりは消える。それでも拍手はなりやまらない。さらに数回ベームが呼び戻される。スポットの中、ベームが一人舞台に立つ。座っている聴衆はいない。
ベルリンでの生活は快適であった。途中、財団がベルリンでの市内観光を計画してくれた。伝統的建物と近代的建物が見事に調和している。しかし、東と西を分断するベルリンの壁が生々しい。亡命に失敗したであろう花束が数カ所に飾れている。悲劇の象徴ブランデンブルグ門が胸を打つ。
ブランデンブルグ門 コンクール5日目。オーケストラ演奏が始まった。ブルガリア、スイス、ソビエト、オーストリア、日本、アメリカの順である。各団体は、課題曲、自由曲、自国の曲を演奏することが義務づけられている。ソビエトのモスクワ音楽院の演奏は圧巻であった。チャイコフスキー、ショスタコビッチといった自国の作品をいとも簡単に、物凄い迫力、徹底的に鍛えられた技術で演奏してくれた。
毎晩、各国の現代曲を耳にする。出場団体の名演奏には圧倒されるが、課題曲を満足にこなした団体はまだなかった。明日に演奏会が迫った私達にとってそれが唯一の励みであった。その解釈もまちまちであった。
9月20日、ついにその日がやってきた。6ヶ月に及ぶ練習。僕にとっては4年間の締めくくり。会場はベルリン音楽大学大ホールである。音響効果もよい。午前、午後のリハーサルも終え、あと数分で開演である。楽器を冷やさないように、唇の感覚を忘れないように楽器を口にあてる。舞台の袖で時間を待つ。入場の合図。客の入りはまあまあである。各国の出場メンバーが座っている。中央には10人あまりの審査員が座っている。カラヤンは仕事の関係でまだベルリンには戻っていないとのことである。
すぐに課題曲のウエーバーの「魔弾の射手」序曲であった。短い序奏のあとホルンの4重奏。心臓は激しく打ち出す。血液が流れているのがわかる。この日のために数百回と練習していた四重奏。指が自然と動く。そして終わる。6ヶ月に及ぶ練習は無駄ではなかった。序曲が終わり、ホルン奏者は起立する。 ホルンパート聴衆の熱い拍手。審査員の話によると、この課題曲、私達が最良の演奏であったとのこと。日本の曲は武満徹の「弦楽のためのレクイエム」。であった。管楽器奏者は舞台から退場。「あなたたちの演奏には心がない。」と東京の演奏会で作曲者自身から批評されたこの曲。ベルリンでの評判は良かったようである。15分間の休憩。舞台横の廊下で話し合っている僕達の所へ見知らぬ女性が話しかけてきた。彼女は、モスクワ音楽院のホルン奏者であった。課題曲のホルンの成功を言いに来てくれたのだ。彼女からモスクワ音楽院のバッジをもらった。
休憩時間のあと、最後の曲、ブラームスの交響曲第4番である。100人にも及ぶ人間が一つになり燃えている。大きな拍手が沸き起こる。2人のドイツ女性が花束を持って舞台に現れる。コンクール初めてのことである。大成功の演奏会であった。アンコールは日本の民謡「中国地方の子守唄」であった。日本人ならではの演奏であった。
ボンとベルリンで演奏会を無事終了した私達はこの上なく幸せであった。結局、コンクール1位はモスクワ音楽院であった。審査員講評によると、ウエーバーは最高の演奏であったが、ブラームスがまだ未熟であったとのこと。所詮、ドイツの作品を日本人が演奏することに無理があるのかもしれない。
ベルリン・フィルハーモニー・ホール 翌日は、アメリカのオークランド・シンホニーの演奏が午後行われ、夕方出場団体メンバーによるレセプションが行われた。
出場10団体の演奏会も終わり、最終日22日、フィルハーモニー・ホールにて最終コンサートが開催された。室内オーケストラとオーケストラの優秀演奏の後、カラヤン指揮による選抜メンバーによる演奏が行われた。私達の中からは10人あまりの弦楽器奏者が出場した。曲はモーツアルトの「3台のピアノのための協奏曲」で3台のピアノの内の1台をカラヤンが担当し、指揮もするというめずらしいものであった。約1年ぶりに再開したカラヤンはやはり遠い存在に感じた。
第3回国際青少年音楽コンクールは終了した。この貴重は体験はそれぞれの人生において生かされることであろう。
ベルリンを去るとき、寄宿舎前はドイツ人関係者が見送ってくれた。ベルリンからハンブルグ。ハンブルグから日本。眼下にみる日本の土。9月25日、午後5時。羽田着。
我が青春に悔いはなし。        (1975年8月4日(月))

あれから35年、もうこの世にカラヤンはいない。亡くなった友もいる。ベルリンの壁もなくなり、ドイツも統一された。レコードからCD・DVD。アナログからデジタル。時代は着実に変化している。しかし青春の思い出はいつまでも心に中に生き続ける。(2010年4月15日(木))

参考:カラヤン・オーケストラ・コンクール・プログラム

Karajan Page

inserted by FC2 system